大徳寺とその周辺

◼鹿苑寺(京都市 北区)

★臨済宗相国寺派

建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。寺名は開基である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。

ご朱印の「舎利殿」は金閣の正式名。

不動堂は金閣寺山内の最古の建物とも言われている。弘法大師・空海が造ったとも言われているご本尊の石不動明王が安置されている。

ご本尊に因んだ「石不動尊」のご朱印。

◼大仙院(京都市 北区)

★臨済宗大徳寺派

大仙院は、大徳寺の塔頭寺院。永正6年(1509年)に大徳寺76世住職古岳宗亘(大聖国師)によって創建された。現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹である。大仙院書院庭園は、室町時代を代表する枯山水庭園である。

ご朱印の「拈華殿」は、当寺の本堂。

◼龍源院(京都市 北区)

★臨済宗大徳寺派

龍源院は、大徳寺の塔頭寺院。南派の本庵とされている。永正年間(1504 – 1521年)に東渓宗牧を開山として、能登の畠山義元、豊後の大友義長、周防の大内義興らが創建。創建年次については、文亀2年(1502年)、永正元年(1504年)など諸説ある。

◼瑞峯院(京都市 北区)

★臨済宗大徳寺派

瑞峯院は、大徳寺の塔頭寺院。天文年間(1532 – 55年)に九州のキリシタン大名として知られる大友宗麟が帰依した大満国師・徹岫宗九を開山に迎え、自らの菩提寺として創建した。

独坐庭は方丈の正面に位置する蓬莱山式庭園で、大刈込と巨石で表した蓬萊山からのびる半島と小島に打ち寄せる荒波を砂紋で描いている。百丈禅師の言葉である「独坐大雄峰」という禅語からの命名。

◼総見院(京都市 北区)

★臨済宗大徳寺派

総見院は大徳寺の塔頭寺院。本能寺の変の100日後、10月10日に大徳寺において織田政権の覇権争いの舞台として有名な大葬礼[1]が執り行われ、喪主は信長の遺児で、秀吉養子の秀勝が務めた。その後の織田信長の一周忌に間に合うように豊臣秀吉が建立した。

ご朱印の「施無畏」は、三施の一つで、仏・菩薩が衆生のおそれを除き、救うことの意味。

◼高桐院(京都市 北区)

★臨済宗大徳寺派

高桐院は大徳寺の塔頭寺院。戦国時代に智将として名を馳せ、茶人としては利休七哲の1人として知られる細川忠興(三斎)が父・細川藤孝(幽斎)のために慶長7年(1602年)建立した寺で、玉甫紹琮を開山とする。正保2年(1645年)に83歳で没した忠興は、遺言によりその遺歯が高桐院に埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護される。

◼相国寺(京都市 上京区)

★臨済宗相国寺派 大本山

足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭である。

ご朱印の「無畏堂」は、当寺の本堂の別名。

若冲は、世俗をすてて禅宗に深く帰依する宗教人でもあり、相国寺の住持大典和尚と深い交遊関係を結んでいた。こうした縁から、相国寺に「動植綵絵(サイエ)」30幅と『釈迦三尊図』3幅対を寄進し、鹿苑寺大書院の障壁画を手掛けた。とくに『釈迦三尊図』は、『動植綵絵』とともに毎年相国寺で参詣者に公開された。